社長紹介

代表取締役 古田俊洋

弊社、代表取締役社長である古田俊洋が自分の歴史を語ってみました。

目次

はじめに

成功者の武勇伝ほどつまらないものはありません。
なにも私が成功者といっているのではありません。
ただ、中小企業の社長であっても、社長と呼ばれる人間が自分を語ることは、どこかしらそういう見方をされるのではないかと思う気持ちもあります。

しかし、私は、この場を借りて、弊社に関わるお客様をはじめ、すべての関係者の方々に私のことを知ってもらい、私と関わっていただき、共に人生を実りあるものにできればと思い筆をとらせていただきました。

この社長がいる会社なら、
管理を任せてみたい。
部屋を借りてみたい。
一緒に仕事がしてみたい。

そう思ってくださる方がひとりでもいてくだされば、恥さらしのような私の歴史を語ることは至上のよろこびへと変わります。

不動産に関わること、仕事に関わること、人生に関わること、
どうぞ何でもお気軽にご相談ください。
会社を創業して30年。仕事を通じて、人生、精進して参りました。
多くの悩みを引き受ける器と、それを解決する手段と知恵と、他者を思いやる思いやりは、人一倍あると自負しています。

また、現在も私とお付き合いいただいている方、これからお付き合いいただく方、こういう私ですからご教授ください。

欠点の集合体と自認するくらい、こだわりが強く、負けん気も強く、クセの多い側面も持ち合わせています。
とはいえ、現場を離れることなく30年間『人』とのご縁を大切に仕事をさせていただけたということは、腰が低く、人当たりも柔らかく、温厚である証だと思っております。
一度親しくさせていただいた方とは、何十年というお付き合いになる性格です。

これまで、力と勇気と信念を持って、不屈の精神で生きてきました。
これからも、そう生きて参ります。

座右の銘:命もいらず、名もいらず
     事実だけを大切に
     今、今、今

正義感が強い問題児

東京都出身。

小学2年生までは優等生だと言われたこともありましたが、小学3年生で長期入院生活があり、勉強についていけなくなりました。その後、成績不振。

もともと正義感が強く、弱い者いじめを見ると相手が何人でも立ち向かっていきました。
小学3年生の時、近所のアメリカ人の同級生と仲良くなりました。(彼は、現在、ロサンゼルスに住んでいますが、ズームをしたりと、今でも親友です。)

アメリカ人のお宅に遊びに行かせてもらったり、幼少期からアメリカの文化に触れた影響もあって、大学時代から暇を見つけては渡米するようになりました。この影響で、日本文化も大いに支持していますが、アメリカ文化も好んでいます。

中学校では、親に行きたくない中学校に入れられ、どうしても馴染めず、別の中学校に転校したいと進言しました。
すぐには聞き入れてもらえなかったので、転校を実現するために、学校では勉強もせず、態度も悪く、問題児となりました。(不良ではありません)

そんな私に、父親が「そんなに嫌なら転校しても良い」と言いました。
ただし、転校先で何か運動部のキャプテンになることを条件にされました。

転校したい一心で、その条件を飲みましたが、よくよく考えると、中途入部で運動部のキャプテンになれるはずはないと思いました。

ですが、約束を破ることは許されない家だったので、私は頭を絞り、2年生がひとりもいないバレーボール部に入部することを決めました。
当然、1年生の部員もおらず、私は同級生一人ひとりに声をかけて8人を集めてチームを作りました。
そして、キャプテンに収まり、親との約束を果たしました。

なければ作れば良い、という精神は、この時に学んだのかもしれません。
が、当時の私にはチーム精神が欠けていたことを今は反省しています。
キャプテンになるために選んだバレーボール部でした。
この頃は、二度とチーム競技はしないと思いました。

結局、その後の人生では武道一色になっていったところから見ると、どちらかというとチームプレーは向かない人間なのかもしれません。
1対1の勝負の方が自分に合っています。
成人してから色々な武道の黒帯を何本も取りました。
しかし、そこで学んだことは、1対1の勝負を行う場所(道場)も結局はチームであるということでした。

武道を通じて得たものは、
人と人は関わりを持たずには生きられない。
共に切磋琢磨する集団に帰属することは、人格形成に役立つ。
同じ道を進む者同士が切磋琢磨することの素晴らしさ。
どんな場面でも、先輩は先輩。
肉体というより心が強くなること。

本当に強い人間は、温厚になることを知りました。

商社マンになるつもりが

大学卒業後、就職活動に苦戦しながら上場企業の商社に就職しました。
商社マンになるつもりが、不動産バブルが始まった頃で、社内に不動産部ができ、そこに配属させられました。
これも運というか、縁というか、たまたま配属された部が不動産部であったのをきっかけに、その後、私の人生は不動産一色となっていったのです。

不動産部は、いまでいうブラックそのものでした。
朝8時から夜11時まで働き、中古マンションの販売をしました。
もちろん、まだ、宅建の資格なども持っておらず、ヘトヘトになって家に帰ってから夜中に勉強しました。
努力は人一倍ですが、ひとつの取引を丁寧に、また、ひとりの顧客を大切にするため、営業成績は決して良い方ではありませんでした。売上至上主義の環境だったため、就職して2年目からは、毎日、辞めたい、辞めたい、と思いながら仕事をしていました。

しかし『石の上にも3年』
そう親と約束したことを守るためだけに、3年は!と辛抱しました。

この頃から、将来、何かしらの自分の会社を持ちたいと考えていて、資本金を貯めるために節約生活を送っていました。

会社のみんなが仕事終わりに飲みに行くところ、私はパンをかじっていました。
そして、予定通り、3年が経つ日に会社を辞めました。

縁がつながり、機会を得る

いつかは社長になりたいと思っていたものの、毎日、体力の限界まで働いていると、もう休みたい、仕事なんか

したくないという思いが強くなっていました。アテもなく会社を辞め、しばらくのんびりしようと思っていました。

仕事を辞めて、10日後、実家に遊びに行きました。
父のもとに、不動産会社の社長が営業に来ていました。
「あれ?息子さん?仕事してないの?なら、うちにいらっしゃい。夕方6時には帰れるし、日曜日は休みだよ。」
父親も「働け!お声がかかるうちが花だ」というので、その翌日から、その社長の運転手兼秘書として働くことになりました。

ところが、実際は、朝8時から午後7時までは秘書業務。
午後7時から午前2時まで、社長の運転手。
日曜日は、社長の接待ゴルフの運転手。

時はバブル。
バブルを絵に描いたような派手な社長のもとで、これまたクタクタになるほど働きました。
休む時間がないのです。

しばらく、この社長のもとで働いていると、会社の取引先の社長が現れ、
「君が欲しい。一目惚れした」と言いました。

欲しいとってくれたこの方は、見た目(特に顔)が、誰が見ても怖い顔で、怒らせると日本刀を振り回すらしいという噂で有名な交渉を商売とする人でした。
「彼をくれないなら、この会社の仕事は受けない」とまで言うので、
勤め先の社長は、「それなら、古田くん行きなさい」と。

この会社に来た時と同じように、自分の心構えができる前に、自分の身の振りが決まっていきました。
当時の私は、それを受け入れることが生きることでした。

今度は、新しい社長のもとで、運転手兼秘書を務めることになりました。
毎朝、社長の自宅まで車でお迎えにあがりました。
社長の目の鋭さは天下一品で、迫力のある中にも人間味のある、男の私が見ても惚れ惚れするような目つきをしていました。
相手が何人でも、どんなに怖い人とでも、交渉を成立させるプロでした。

いつ日本刀を振り回されるのか、ビクビクしながら社長の側にお仕えしました。
運転手兼秘書ですから、長い時間を2人で過ごすことになりました。
車の中ではいつも2人きり。
社長が交渉をなさる時は、その姿を端の方でじっと見ていました。
私は、社長が行う交渉を聞いているだけでしたが、その話術や戦法、采配など、本当に勉強になりました。

そうやって、毎日毎日、四六時中、社長に同行していると、噂とは違い、まったく穏やかな方だということがわかりました。
人の話をちゃんと聞いて、相手がどうしたら納得してくれるのかを考え、人知れず、心砕いている面も見ることができました。
そして、いつしか、私たちは父子のような関係になっていきました。
社長が「俺にもこんな息子がいたらいいな」と言ってくれたとき、心底うれしく感じました。

その社長がある日言いました。
「君も起業しなさい」と。

「いやいや、まだまだ私は26歳・・・。40歳くらいになったら考えます」と言いました。
すると、見たこともない形相で一喝されました。
「俺は、戦後、ハタチそこそこで10人の家族を養ったぞ!それでも男か!」と。

いつも穏やかな社長に怒鳴られ、この時だけは怖かったです。
そして、効きました。
社長が「俺が後ろ盾になってあげる。力を貸してあげる。だからやりなさい」こう言ってくれました。

それなら2人で始めるようなものだと思い、「やります」と答えました。
それから会社を作る準備をはじめ、登記が済む前の夜、酒が飲めない私に、今夜は一緒に飲もうと社長から誘っていただきました。
2人で、これからの夢を語り合いました。

予定外の孤軍奮闘、そして経営危機

その翌朝、社長の奥様から電話がありました。
「主人が亡くなりました」

呆然自失とはこのことで、亡くなったことが信じられない気持ちと、会社をやっていく計画はどうしたら良いのか、自分はどうするべきなのか、途方に暮れました。
悲しみと無念の気持ちを抱えてる最中、社長との思い出がたくさんよぎりました。
その中に「それでも男か!」と一喝された日のことがありました。
そう一喝してくれたのは、自分を男として見込んでくれたからだと解釈し、感謝の気持ちでいっぱいになりました。

お世話になった社長は、私に男になるチャンスを人生最後に送ってくれた。
その気持ちにこたえなければならない。
この機会を活かさなければ、ご恩返しができない。

私は、1人でやることを決めました。
会社の電話は、携帯電話に転送し、電車の中でも
「はい。不動産の美都です」と電話を取りました。
会社にはファックスが必要で、ファックスを買うために自分のバイクを売りました。

しかし、ここでバブル崩壊。
誰も不動産に興味はない。
経営も初めてで、ひとりぼっち。相談相手もいない。
起業して1年が経つ頃、会社員時代から貯めてきた金は底をつきました。
「あー、やっぱりムリだったんだ」と思いました。
こんなことになるなら、もっと美味しいものを食べたり、車を買ったりすればよかった。

昼間は営業をやり、夜になると、少しでも稼ごうと賃貸の部屋を貸し出す前のルームクリーニングを自分でやりました。
睡眠時間は無いに等しく、肉体的にも限界に達していました。
もう、本当に辞めてしまいたい。
そう考えていた夜に、ふと思ったのです。
自分の仕事は、掃除をすることではなく、営業をすることではないだろうか、と。

営業に力を入れて、朝から晩まで、いや、夜中も人に会うことに専念しよう、と。

営業をすることは、売り込むことではなかった

どうすれば人に会えるか考え、世の中の社長さんが足を運ぶ法人会や青年会議所、人の集うところに通いました。
人としゃべることは好きだったので、そこではすぐ馴染むことができました。
すると、世の中の社長さんたちが抱える不動産に関する悩みが多いことに驚きました。

私を気に入ってくださり、そこで出会った社長さんや、そのまた知り合いの方の不動産に関する問題の処理を頼まれ、私は片っ端から片付けていきました。

そうしていると私の噂が広まっていき、紹介者がさらに紹介してくれるという連鎖で、仕事が舞い込んでくるようになりました。
これによって、倒産危機を免れ、発展の序章になりました。

資金が底を尽きた時、どうにか営業をしなければならないと思いました。
人と会って、自分を売り込んで、仕事を取ってこなければならないと思いました。
しかし、実際は、営業とは、自分のサービスを紹介したり、売り込んだりすることではなく、他者の悩みを聞くこと、それを解決すること。
つまりは、人のお役に立つことだと知りました。

ですので、私は27歳の起業時から、不動産業者がクロージングで用いる言葉である、
「売ってください」
「買ってください」
「貸してください」
「借りてください」
これらを一切使わないと決めて仕事に邁進しました。

私の古女房

無論、この頃になると1人で会社をやっていくのは困難になりました。
私は、以前同じ職場で働いていた高嶋(現在、弊社の取締役)を口説きにいきました。
最初は、断られました。
当然です。当時、高嶋がもらっている給与の半分しか出せない。
そこでも私は諦めません。
週に何度も彼の家に泊まりに行き、一緒にやろうと説得しました。
数ヶ月後、高嶋は承諾してくれました。
こうやってでも、絶対に彼に来て欲しかったのは、
『さわやか・嘘をつかない・粘りがある』
私にはない良さを持っていると知っていたからです。

この時から30年間、深夜営業の私が時折寝坊してしまうことがあっても、高嶋は、定時にシャッターを開けてくれ、朝礼を仕切ってくれ、夜になるときちんと戸締りをしてくれます。
私のわがまま聞いてくれ、古女房のような存在です。
本当に長い年月、誰にでもできることではありません。

経営者としての自分を見つめて

紹介者が紹介をしてくれるくらい、私の噂が広まり、会社も軌道に乗りましたが、
この時から現在まで、順風満帆だったわけではありません。

経営が軌道に乗り、ある程度の収入が定期的に入ってくるようになると、私にも慢心が生まれた時期もありました。
30代で若かったこともあります。
自分は何でもできるような、驕り高ぶった気持ちになっていた時期もあります。

しかし、人間、やったことはやり返される。
それは、他人を傷つけるから、自分が傷つくということではなく、自身の人生に対して真摯に取り組まず、この程度働けば良いだろうという気持ちを持つと、普通にやっている仕事でも、今まではうまくいっていた仕事でも、うまくいかなくなってくるのです。
見えない力が働き、あれ?なぜだろう、うまくいかない、となるのです。
その瞬間は、誰かのせいにしてしまいがちですが、通り過ぎて考えると、自分の気持ちがたるんでいたことに気づかされました。

私は40代になってから天風会に入会しました。
経営の神様、松下幸之助が師匠としていた、中村天風哲学を学ぶ必要があると思いました。
もちろん、私は松下幸之助の足元にも及ばない人間です。
ただ、小さき会社ながらも経営者として生きていくには、自分がどうあるべきかを追求しなければ、この先、何を指針に経営するのか?と感じたからです。
中村天風は「人を幸せにすることに必要なことをすれば、その仕事は残る」といいます。
尊敬する中村天風がいうその言葉を信じて、同門として恥ずかしくない経営を目指しています。
『儲ける』というその前に、人が喜んでくれる仕事をして、その後に報酬がついてくるのだと信じています。
社員にも、その精神は徹底させています。

美都イズムを貫いて

正直な人、手を抜かない人、努力する人、真面目な人、こういう人間しか我が社にはいません。
逆に言えば、そういう人間でなければいられない会社なのです。そういう社風なのです。
これを『美都イズム』と呼んでいます。
また『美都イズム』は協力業者にも及びます。

会社は給与を稼ぐ箱ものではありません。

人・人・人

すべては、人の質にあります。
人の質が低ければ、サービスの質が良いわけない。
社内のムードが良いわけない。
会社は、人生の大半を過ごす場所です。
その場所の質が悪ければ、そこで働く人の質も悪くなっていきます。

弊社も一時期、試験的に大手企業のフランチャイズに加盟したことがありました。
本社から、店舗に来てアドバイスをしてくれる担当者は20代で、賃貸不動産の店舗経験も数年程度の方でした。
その担当者が、店舗づくりについて、経営について、指南してきます。
実際に、現場で叩き上げの私と、当然、見解はいつも違いました。
その担当者のいうルールやシステムが、弊社のためなのか、それとも、そのフランチャイズ企業のためなのか、私は理解に苦しみ、結果、受け入れることはできなくなり加盟店から脱退しました。
どんなに効率が良くとも、システマチックな対応や処理をする会社ではなく、手間がかかっても、売り上げが減っても、お客様に喜んでいただける会社づくりをしていこうと思い直しました。

私たちは、賃貸不動産管理会社として、オーナー様の大切な財産を扱わせていただいています。
不動産という不安定なものを扱いながら、お客様に安定(安心)していただくことが、最重要課題です。
そのために、お客様に対して、説得や交渉をするのではなく、隣に寄り添い、同じ方向を見て、正しく歩むことを大事にしています。
それには、やはり信頼関係を築くことが最も大事だと思っています。

私はこれからも仕事を通じて、お客様を、社員を幸せにし、地元をしあわせにし、美しい都を作りたい。
大きなことを言えば、それは日本が良くなっていくことだと信じています。
そのために、今日も、また、明日も、一つひとつ、目の前の仕事に真摯に取り組んでいきます。
力と勇気と信念を持って。

おわりに

縁にふれて、すべての物事は変化していきます。
その縁を大切にしています。

縁の根底に『こころ』というものを大切にする気持ちがなければ良縁になりません。

この仕事は『良縁を結ぶこと』と信念しています。

これまでご縁を結んでくださった方、これからご縁を結んでくださる方、
どうか、よろしくお願い申し上げます。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。